第12話  「酒田衆(さかたしょ)の釣り」    平成25年03月31日 

 庄内藩十四万石の城下町鶴岡と商業都市酒田湊とでは、気質が全く異なる。同じ庄内にありながらである。城下町鶴岡では保守的な性格が強く、商業都市の酒田では進取の精神に富んでいる。武士の町と云う性格上、町全体が古くからの習慣・制度・考え方などを尊び、急激な改革には反対する者が多い。片や酒田は商業の街であり、古からの習慣等にはあまり固執する事なく積極的に良いと思えば直ぐに取り込む事に長けていた。悪く言えば鶴岡人は古い習慣に何時までも固執し、酒田人は単なる新し物好きだったとも云える。
 庄内藩において「釣り」と「鳥刺し」とは共に「遠足」と云われ、武士達の体力の増強、精神の高揚、武芸そのものとして大いに奨励されて来た。江戸での釣りは遊釣として考えられ発展した釣りだが、庄内の鶴岡においては、釣りを武芸のひとつとして考えられ発展して来た。一方の酒田では、釣りとは怠け者、年寄のする遊び所謂遊釣として捕えられていた。良い若い者が釣りに興ずれば、即怠け者として見られた。即ち武士の町と商人町の違いが、ここにはっきりと出ている。
 酒田では、釣りとは時間の浪費でありけっしてお金になる事はないものである。もしその時間を使って稼いだら、いくらのお金になるかと考える。片や鶴岡では同じ時間を過ごすにも釣りとは体力の増強や精神の高揚に使ったり出来るもので、有意義に使う時間であるから、決して時間の浪費になるとは考えていない。
 同じ釣りでも、鶴岡の釣りは十数キロ離れた山越えの日本海の磯場での釣りであった。一方酒田の釣りは、平地を歩いて直ぐ近くの最上川河口の釣りである。従って釣り方も違うし、釣りに対する考え方も異なる。最近の若者たちの釣りは、全国的に同じような釣りに統一された釣りとなってきているが、私たちが盛んに釣りをして来た頃の釣りは、同じ魚を釣るのにこんなに違う物かとびっくりするほどの異質な釣りであり、それほどの違いがあったものだ。最も荒磯の釣り(鶴岡)と浜と防波堤(酒田)の釣りであるから違うのは当然である。
 鶴岡の荒磯の釣りでは、庄内釣法と呼ばれる磯に寄せる潮の流れを読み、そのハキ(反転流)を使って撒餌をその流れに乗せて、餌は死んでいても生きているように見せ、さらに太ハリスを魚に見せない為錘を付けないで自然に見せて釣るという完全ふかせ釣法と云う釣り方を考え出し発展させて来た。一方酒田の釣りでは、最上川や新井田川の強い流れの為、比較的重い錘をつけて魚のいそうなポイントに餌を落として釣る。川の濁りを重視し、鶴岡のように潮を使った撒餌を使う釣り方等は殆ど行わない。
 だから若い頃の我々は鶴岡の釣りをわざわざお金を使って撒餌を買い、魚を集めて釣るお金持ちの「大名釣り」と揶揄した。それに対して自分たちの釣りを「貧乏釣り」と卑下したものだ。鶴岡の西の荒磯では、そんなに黒鯛が多く釣れる訳ではない。多くないから少しの魚が釣れても自慢になるし、偶々人より大きい魚が釣れれば皆の羨望の的にもなった。
 酒田本港に釣りに来た鶴岡の人が多くの撒餌をしてひたひたと黒鯛の二歳物の数釣りする姿を見て我々はびっくりしたものだ。今になって考えれば、鶴岡の釣りは長い伝統に裏打ちされた合理的な釣り方をしていただけなのだ。酒田の釣りは障害物等のポイントを探して釣るこれまた経験に裏打ちされた合理的な釣り方の一つであったのである。
酒田衆は鶴岡衆(つるおかしょ)の釣りは・・・と馬鹿にし、一方鶴岡衆は酒田衆の釣りは・・・と馬鹿にした。鶴岡の釣りは300年の経験に裏打ちされた釣りであった。一方酒田衆(さかたしょ)の釣りはその時その時の新しい釣りを集合し地元にあった釣りに消化した釣りであった。釣りは楽しむものである。釣れるからと云って、釣り過ぎもほどほどに・・・・したいものだ。